読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

うみのまち

 特になし。

 

 

 

数日前から塩分と炭水化物を控えて、間食がわりにただ煎っただけのクルミを袋からこそこそ食べていた。昨夜も浴槽の中であたためながらマッサージをした。いつもより多めに保湿ローションを顔につけ、いつもより早く布団にもぐりこんだ。前日、というより数日前から気をつけなければあっという間に顔はむくみ、乾燥する。朝たたくパウダーが明らかにのらない。そんな年齢なのだった。ほんの数年前は違ったはずだが、過ぎてしまったものは仕方がない。失ったものたちとそれなりにやっていくしかないではないか。リネンや洗いざらしの布の風合いは若くて潤いのある肌に重ねるから似合うのだ。自分自身がガサガサしているのだから、シルクや、きちんとアイロンをかけたブラウスでなければ全体がくすんだ印象になる。淡いリップはきちんと発色する口紅に。勤めているのが女性が多い職場だから、こんな話を皆でよくしているのだった。先輩の一人に「きれいなものを見て不快になる人はいないからいくらでもきれいにしていいんだよ。美しくいることはマナーだよ。」と言われた時は頭をガツンと殴られたような気がした。努めてきれいにしている姿を見られることに恥ずかしさのようなものを感じていた時期もあった。完全に思い上がりなのだが、少し隙があって緩めていたほうがかっこいいのではないか、そんなばかなことを考えていたのだ。若かったと思う。今はそんな若さが欲しいのだが。

この数ヵ月、私は病気にかかっていた。これは恋だ。自分の力ではどうしようもないことが世の中にはたくさんある。どうしようもなくて、どこにもいけない。その場で足踏みどころか踏み台昇降をし続けるような疲労感があった。好きになっても、どこにもいけない。関係に名前をつけることがしたいのではなかった。勤務先の機械室は外側から鍵がかかっていて、中に入るとたくさんの冷却水の管と防音のための分厚い綿が壁じゅうに敷きつめられていて息苦しい。私にはなにかを選ぶ権利も力も勇気もなかった。ただ、ほんの少し空いた自分の時間を費やして、せっせと自分だけの静かな恋をしていた。熱さも、冷たさも、大きな声で伝えたいこともすべて小さな世界に閉じこめて、隠していた。私の心及びからだは機械室のように外からは見えなかった。相手がいることなのに、完全に自分だけのものだった。手の中にあるチョコレートを、ほんの少しずつ折っては口に入れ、大切に大切にただ減っていくのを見ているような。なにも失うものなどないのに、私はいつも心細かった。

その日はほんとうに空が青くて、室内にいるのがもったいなかった。古い海辺の町で待ち合わせをして、美術館の中の喫茶室に入った。窓の外から坂の多い町が見える。「ほら、あれ図書館。」茶色い建物を指差して言った。指にはコーラルピンクが塗ってある。白い指に映えるように。かわいいかわいい君の目にうつるように。「行ったことありますか?」「少し前に仕事で行ったよ。子どもたちを連れていって見学してきた。」「今の中学生くらいの子って本とか読むんですか。」「読む子は読むし、読まない子は読まない。いつの時代も一緒だよ。さとうくんは結構読むよね。」「読みます、ね。一人でいるときはだいたい寝てるか本読むか、かな。」ラジオや映画、友人の話、いつものありきたりな会話をいくつか重ねて、店員が運んできたアイスコーヒーを飲んだ。「今日は、ほんっとうに明るいなぁ」「今日はほんとうに空が青くて気持ちがいい」「うわー、あったかいなぁ、健全な気持ちになる」こんなことを何回言っただろうか。完全に目の前の若者に舞い上がっていた。ろくに目も合わせず、窓の外ばかり見ていた。眼鏡を変えたのか、相変わらずかわいい顔をしてこちらを見ている。話しながら表情がぱっと明るくなるのを見ていると、こちらまでおなかのあたりがぽかぽかと温まるようだった。車で移動しながら、行き先を尋ねられた。窓の外を眺めながら、「今日は、いい、かな。もったいないよ。外にいたい。外、歩きたいな。」「いいですよ。」古い町から古い町へと車を走らせた。寺の敷地内の苔むした庭園を小さな声で話しながら歩いた。いろいろな話をした。このまま、出口がなければいいのにな。彼とはきちんと距離を保って歩いた。境目がなくなるような日もあったけれど、お天道様の下ではきちんとしていたかった。彼は誰にでも優しくて、気がきく男の子だ。並んで歩いたらきっと手をとってくれるだろう。自然に、でもそれも私へのサービスなのだ。だから彼の近くにある方の手で革製のバッグを持った。もう一方の手も後ろに回してご機嫌に歩いた。海からの風を受けながら泣きそうになったけれど、これはきっと砂だ。「砂があ…」「今日コンタクトですもんね。大丈夫ですか」「うう…すな…トイレ…」こんなふうに私は逃げる。チャンネルを時々切り替えていないと、心がもたない。人生や生活はずっと続いていくのだし、彼は来年社会人になって遠くにいくのだろう。きっとスーツ姿もかっこいいね。素敵な恋人ができて、仕事でへとへとになったりもするのかな。時間は緩やかにつながっていて、SNS なんかもあるし、数年先もお互いのことを覚えているだろう。でも覚えていられるのなんてまっぴらごめんだ。このほんのひとときが、ずっと続かないのなら、忘れてほしい。そして私は今の私のままで、さとうくんだけが歳をとればいいじゃない。

今日の私は結構きれいだったと思う。

 

 

 

特になし